LOGIN私は夫の会社のイベントで、顔見知りの社員、水谷あかねから
会社での夫の近況の様子などを聞かされた。どうも夫に付きまとっている女子社員がいるらしく、その彼女の
目に余る言動に黙っていられなくなったのだという。付きまとっている馬場真莉愛という社員が、夫との出張時に自ら起こした
出来事と、これまでの残業中にあった彼女と夫との会話をこっそりと録画し、 それをYoutubeにuoloadしているというものだ。私はそれでもなんとかその時は平常心でいられた。
けれどその日、予め用意しておいたのだろうブログアドレスのメモを
水谷さんから渡された後では、到底胸のドキドキを止められるはずも なかった。 帰宅した翌日、はやる気持ちを抑えきれない……そんな心持ちで 馬場真莉愛のブログを見た。 uploadされていた動画はいくつかあって、馬場真莉愛は水谷女子には すぐに削除すると言ってたようだが、残っていた。見たあと、とても平静ではいられなかった。
この日は日曜だったため、日頃の疲れもあってか夫はまだぐっすりと 眠っている。夫が起きてきたら、どんな顔をして会話を交わせばいいのか。
いくつもの動画の中の夫は、いつの時も上手に馬鹿な女の
言葉をかわしていた。 だけど、その中にあった動画のひとつは、私にとって人生をかけるほど 拘りのあるモノとなった。到底看過できるものではない。
けれどそれは、夫に面と向かって問い詰められるようなことでも なかった。非常にデリケートな問題だ。 だけど、こんなデリケートな問題を── こともあろうに、あんな鶏頭の女にあっさりと話すなんて。 それは私が最近ずっと気にしていたことでもあったのだ。そう、私たちは息子が産まれて数ヶ月になるけれど、夫婦生活が
一度もなかった。どうしたの?
どうして? 私の子育てがひと段落つくのを待ってるの? 何度も喉から出掛かった言葉。だけど、真莉愛の作ったという動画の中で、夫ははっきりと
その理由《わけ》を語っていた。 もはや、質問する意味はなくなった。 私のことは、もう性愛の対象ではない……と夫は言い切っている。 そんな夫に一体、私から何ができるのか。 まだこんなに若いのに? 悶々と誰にも言えない問題を抱えて、この先夫婦でいられるのか?予想だにしてなかった展開に……
私は出せない答えを抱えながら、暮らすことになる。「昨夜泊まったというか、私たちは家族だから。 薫《たい》は7年前からずっと私たちとこの家で暮らしてるわ。 毎晩泊まってる」 俺は頭が痛くなってきた。 毎晩泊まってるって何だよそれ。 問答している俺たちにいつの間にか側にいた由宇の従兄弟である 北嶋薫が、横から口を挟んできた。 「将康さん、すみません。 俺、由宇子さんと結婚してずっとこの家で暮らしてます。 あなたの奥さんだったのに、いただいちゃってすみません」 「いただいちゃってって……いただいちゃってって……」 変な汗が流れてきた。 頭も気持ちも付いていかない。 浦島太郎のような気分だ。 沢山の貯蓄をして妻を驚かせようと…… 由宇子を振り向かせようと……喜ばせようと…… ガムシャラに8年、独りで頑張ってきたというのに。 何だこれ、この顛末…… 有り得ない顛末…… 俺は悪い夢でも見せられているようだった。 「ひどいだろ、こんなやり方。 ずっと君たちのことを想っていた俺にこんな仕打ち。 何でこんな酷いことができるんだ」 「あなた、被害者気取りなのね。 あなたは仕事一筋全力投球も出来たし、いい女《こ》とも 仲良くやれていい想いもしたでしょ? 被害者面しないでほしいなぁ~ あなたと女性たちのこと、いろいろ知ってるのよ。 あなた言い逃れだけは上手かったわよねぇ~? 私が何も知らないと思ってたかもしれないけど、結構知ってるんだなっ、 これが」「赴任する前に来た手紙のことならちゃんと説明したろ?」「あぁ、あれ? 結局あなた、手紙を寄越したのが誰なのか吐かなかったけどぉ、私には 分かってたのよ? 差出人がどんな女なのか。 名前のことだけじゃないわよ? どんな性格の女なのかっていうこともね。 とにかく、私は単身赴任で行ってしまうあなたのことで、頭を悩ませて 暮らすなんて真っ平だったの。 嫌よそんな生活。 それに1度妻を裏切るような人間はまたやるのよ。 実際そうだったわけだし? 言い逃れはできないわよ。 証拠あるから。 「何を根拠に知ったかぶりをしているのか知らないが、君の誤解だ。 俺は誰とも浮気はしていないんだからな」
「そんなに心配ならちょくちょく俺の赴任先へ様子を見に来ればよかっただろ? いろいろと疑いを持っていたのなら何故会いに来て問い詰めなかったんだよ。 納得のいく話し合いすらもない状態で勝手に離婚された身にもなれってんだ。 勝手に行ったようなことばかり君は口にするけれど、仕事に情熱を持って積極的に行ったからって、正直俺だって独り暮らしはずっと寂しかったさ。 今こっちへ帰ってきて改めて君が何故一度も俺の元へ足を運んでくれなかったのか、遅まきながら合点がいったよ。 そりゃあ離婚届け出して他人になった男のことなんてどうでもよかっただろうからね。 8年も経ってから知った俺はとんだピエロだな」*「被害者ぶらないでよ。 ずっと家族と暮らしていける選択肢だってあなたにはあった。 なのに、わざわざ家族と離れて暮らす単身赴任を選んだのはあ・な・た、あなたなのよ。 何年離れて暮らさなきゃならないかも分からないような赴任だったのにね。 家族を犠牲にして思いっきり仕事できて幸せだったんでしょ? 私は泣いてゴネてあなたの仕事の邪魔しなかったんだから感謝してほしいくらい。 言わずにおこうかと思ったけど……」「何だ?」*「ほんとは離婚届け、あなたが赴任先に行ってすぐに出したってわけでもないのよ。 すぐに出したいと思っていたのは本当だけどね。 でも、ま──少し迷ってたかなぁ~! あの時の気持ちぃ~どうだったのかなぁ~」 ◇ ◇ ◇ ◇ 私は曖昧な言葉を発しながら当時の自分の気持ちを思い出そうとしていた。 そう、あの当時たぶん決定打を探していたのかもしれない。 婚姻関係にある夫《ひと》と他人になるために離婚してしまうっていうことを境界線で例えるとするならば…… 10cm程の白線を跨げばいいだけの状況の中で、わたしは白線の側《がわ》ぎりぎりの場所に立っていたんだと思う。 跨ぐことは決定事項だったんだけど。 それでも私はすぐには跨げずにいた。 人はそれを情だとか未練だとかというふうに名付けるだろうか。 だけど、そんなこと何も考えずに自然に跨げてしまうような出来事が起きた。
「ここにあなたの居場所はないわ」「何を言ってるんだ。 やっと赴任先から帰ってきたと思ったら、そんなわけの分からないことを言って」「私とあなたはもう7年前に別れてるの。 私が離婚届けを出してるから」「自分が何言ってるのか分かってるのか? 何勝手なことを。 俺の意思確認もなしにそんなの無効だろ。 俺は離婚なんかしないぞ」「あなた離婚届に署名捺印したでしょ? あなたの意志入ってる届けを出しただけ。 今更取り消しは無理よ」「最初からそのつもりで届けにサインさせてたのか?」「そりゃあそうよ」「信じられない……。どうして?」「どうして? 私を……ううん、私たちを捨てて行ったからに決まってるでしょ」「捨ててって── 単身赴任しただけだろ? 君も納得してたじゃないか」*「してない。 賛成なんて一度も言ってないし、納得したとも言ってないわ。 あなたは最後まで私の意見聞かなかっただけ。 賛成した覚えはないんだけど?」「納得してなかったのならどうして俺に強く反対だと言ってこなかったんだ?」「あなたの意思が固かったし、私に対する気持ちの小ささも透けて見えたから黙ってただけ。 もう別れようと思っていたから、どうでも良かったし」 妻の台詞は鋭く俺の胸に突き刺さった。 毒針のようにジクジクと刺さったところが痛かった。 こんな奇天烈な話は本当なのだろうか。 冗談? サプライズ? あまりにも奇天烈過ぎて、騙されているのではないかとさえ思った。 気持ちをひとまず抑えて、俺は尋ねた。「従兄弟は昨日泊まったのか?」
とにかく赴任先での業務は熾烈を極めていた。 忙しすぎた。 そのため――妻のこちらに帰って来なくてもいい、仕事に打ち込んでほしいからの言葉に、甘えてしまった。 今更ながら8年は長過ぎた春だった? ──もとい、確かに長い年月だった。 しかもその間、一度も家族に会ってない。 そんなことは重々分かっているさ。 だからって離婚? それっていつのことなんだ? 何もかもが分からないことだらけで、不安ばかりが募る。 義母に教えられた住所を、疲れた身体をひきずり歩きようやく探し当てた。 出て来たのは由宇子と彼女の従兄弟だった。 由宇子からいきなり玄関先で──『泊まりはホテルを取ってほしい』と言われ、俺は面くらった。 とにかく、話を聞かないと到底納得できない今の状況に、話を聞かせてもらおうじゃないかと迫る。「もう今日はこんな時間だし、あなたも疲れてるでしょうから 話は明日にしませんか?」 由宇子の提案で翌日訪ねることにして、俺は泊まる部屋を探した。 ◇ ◇ ◇ ◇ 結局、最寄り駅近辺でホテルを探して宿泊した。 混乱や不安を抱えつつも、どっと襲ってきた疲労感に包まれて、その夜は爆睡し、クリアーな頭と少し元気を回復した身体で翌日由宇子の元を訪ねた。 通されたリビングは、優に畳20畳分はあろうかと思うほど広かった。 その全てが白一色というわけでもないが、ぱっと部屋を見た瞬間に、白での統一感のある、そしてすぐに子供たちのいるファミリー用なのだと分かるブランコが、ふたつも備え付けられていた。 そこには昨日見かけた由宇子の従兄弟の北嶋薫《きたじまたい》がまだいた。 その北嶋に子供たちが父さんと言ってるのを聞いて俺は驚いた。 何の罰ゲームだ。「どういうこと?」
「え~と、どなたですか?」「えっ? ここに住んでる大倉ですが」「何おっしゃるの、7~8年も前からここに住んでるのはわたくしたちですよ」「えっ、そんな」 奥さんと問答していると後ろから旦那らしき人物が現れ……「私たちの前の持ち主が確か大倉って言ってなかったかい?」と、奥さんと俺に向けて言った。 何がなにやらさっぱり分からなかったが、ひとまず知らないとはいえ、不躾なことを言ってるのはこちら側なのかもしれないということが朧げに分かったため『失礼しました』と告げて、その場を離れた。 俺はすぐさま、由宇子に電話した。「もしもし……」「もしもし……」 「驚かせようと思って詳しい日時を言ってなかったんだが、今日赴任を終えて帰ってきたよ」「あらっ、帰ってきたんだ」「あらって、どうして俺の家に知らない家族がいるのか説明してくれないだろうか」 俺は少しの怒りと疲れのため、問いかけるのが強い言い方になってしまった。「あなたと私はとっくの昔にもう離婚して他人だからよ」「な、何言ってんだ!」「戸籍調べてみれば?」 妻と話していてものらりくらりで、どうにも話が進まない。 意図的に進まないようにもっていってるのだろうが。 しょうがないので義親家に連絡をとり、どういうことなのか訊くことにした。 それで──妻と子らが今どこに住んでいるのかを訊くために、俺は疲れた足を引き摺るようにして、義親家へと出向いた。 お義母さんは、一度は本人同士会って膝突き合わせて話をするべきと、あっさり今由宇子たちが住んでいる住所を教えてくれた。 良かった。 由宇子たちは彼女の実家のすぐ近所に住んでいたからだ。 これからまた、数時間かけて行かないととなると、もう今の俺には到底無理だった。 離婚て、離婚て──そんな簡単に一方の決めつけだけでできないだろうに全く──と、憤懣遣る方ない気持ちで俺はまだ見知らぬ家へと、モヤモヤした気持ちを抱えて向かった。
単身赴任して8年の歳月が流れ──まさか単身赴任が8年もの長きになるとは流石に想像できなかった。 それこそ、思いの限りやりたいだけ仕事をしつくしたと言えるだろう。 あんなに仕事やりたい症候群に捉われていた自分も本社に戻れば、モーレツ社員は返上して、普通の仕事量でやっていこうと思えるようになっていた。 この8年、妻の申し出に甘えて家には一度も帰っていない。 帰りの新幹線の中で少し不安になってきた。 家が近づくにつれ、嘗てない感情に捉われはじめてもいた。 8年間も家族の顔を見ないで過ごしてきた……過ごしてこれた……俺は、どうなんだろう?一般的に……世間的に…… 仕事しか目に入らない、入らなかった自分が、そのモーレツな思いから解き放たれた途端、気になりだしたのだ。 これまでの8年間というものが……。 だが、ここでそんな思いを捉われたとて何になろう。 今さらだ。 大丈夫だ、由宇子とは月に2~3度メールでだが近況のやりとりはしていたりのだから、と自分を鼓舞して……鼓舞しないといけないっていうこと自体おかしいよなって……頭のどこかで警鐘が鳴っている。 家に近づくにつれて、離れた時の子らの顔と妻の顔が浮かんでは消えた。 俺らしくもなく、少し胸がドキドキしてくる。 そして、家族と一緒に暮らせる喜びと期待が胸に湧いてくる。 胸がやたらと高鳴っているのがわかる。 8年間、俺は仕事一筋真面目にモーレツに頑張った。 収入も倍以上増えるし役職にもつける。 妻の由宇子に早くこの話を届けたい。 ◇ ◇ ◇ ◇ それなのに家に着くと、俺を出迎えてくれるはずの家族は誰もいなかった。 出てきたのは、知らない人間だった。